作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の
『Motion1(JAZZ風に) 高秋美樹彦』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
映像は和歌山懸にある、
『熊野』
へ出かけた時のものです。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。
ない方が良いといふ讀者は、ご自由にどうぞ。
少年の夢といふものは、何とも可笑(をか)しなものである。
何がどう可笑しいかといふと、もう少年を失つた筆者が、少年にならうとしてその頃思つた事を考へると、到底、今の現實社會に働かざるを得ない人間にとつては、まるでその儘では生きて行けさうもない事を、その頃の少年であつた筆者が、平然と生きてゐられたのだといふ事である。
さう思ふと、その頃の事が信じられないといふよりも、その時代の儘に生きられない筆者自身の置かれたこの現實が、救ひやうのない不可解なものとなるのである。
ある人から、こんな話を聞いた事がある。
彼は場末のスナツクで麥酒(ビイル)を飲みながら、
「麥酒を飲むと、よく思ひ出すから、普段は日本酒しか飲まないのだが」
と前置きをして語つた。
それは彼がある時、友人と麥酒を飲んだ時に出された麥酒の商標(ラベル)を見て、そのある會社の象徴(シンボル)である『麒麟』の標章(マアク)が、昔、父親が飲んでゐた時に、その描かれた繪の持つ何か傳説めいた姿を見ながら、父が少年に、
「この動物は「キリン」といふのだよ」
と言つて説明してくれた事を思ひ出させた。
その時に、父がその動物――麒麟(wonder
giraffe?)について、しつかりとした知識を與へておいてくれたならば、彼は今日(こんにち)ほどがつかりはしなかつた、といふのである。
古代中國で聖人によつて良い政治が行はれる時のしるしとして現れる空想上の動物である、と。
しかし、彼はその時父親が何も言はなかつた爲に、殆どこの動物がこの世に存在するものと決込んでゐた。
この世がまだまだ神秘に滿ちてゐる事を悦び、夢に似たものが、彼の中にはあつたと言つた。
また、さういふ動物が存在するほど、世界は素晴しいと思つてゐられた、とも言つた。
が、ある時、少年は父親の子供を思ふ氣持から、動物園へ連れて行かれて、猿をみたり、膃肭臍(オツトセイ)を見たり、虎や獅子(ライオン)を見て、世界の動物が集められてゐるのに不思議を見た思ひだつたが、不圖(ふと)、少年は大きくて何とも首の長い斑(まだら)の黄色い動物を見ると、父親に尋ねた。
あれは何といふ動物か、と。
その時、父親は惡意のない惡意で答へた。
「キリンといふのだよ」
少年は叫びたい氣持になつた。
「嘘だ!」
少年には信じられなかつた。
その動物を見に集まつてくる年上の少年たちが、口々にその「キリン」といふ名を呼んでも、少年は信じようとはしなかつた。
やがて彼は、筆者の友人の滝氏の言葉を借りれば、「モミヂのやうな手」で、持つてゐたお菓子か何かを、地面に叩きつけたに違ひなかつたと言つた。
さうして、彼はもし自分がその儘なにも知らずに育つたとしても、人生は少しも彼の前には變らなかつただらう事も、事實だと思はれるとつけ加へた。
いづれにしても、彼は誰もがさうであらうと思はれるやうに、少年の頃の夢は、その時飲んだ麥酒の泡の如く消え失せ、それ以來、苦い味に醉はされつ放しだと言ふのである。
しかし、彼はそれでも何かを思ひ出すやうにして、泡の消え去つた麥酒を、薄暗い赤や黄色の燈の明滅する中で、獨りして飲んでゐた。
筆者は彼の話に同意出來た。
恐らく、少年の夢といふものは、かういふ形で失はれた人が多かつたのではなからうか、と筆者には思へてならない。
實は、筆者もその少年のひとりに過ぎなかつたのだから……。
- 一九七二年昭和四十七壬子(みづのえね)年長月三日午前二時
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