2012年3月3日土曜日

殘夢(The rest of the illusion) その六(op.30)





殘夢(The rest of the illusion)

その六(op.30)  

.光代に捧ぐ


――肉體の渾沌(カオス)が母胎の中だとすれば、精神の渾沌は幼年時代である     



一、

 彼は家庭の事情からとは言へ、名古屋で三度の轉居(てんきよ)を強()ひられた。
 三度目の「前後(ぜんご)」といふ處へ住むやうになつたのは、彼が小學校の二年生に進級する時だつた。
 しかし、その土地のT小學校で初めて授業を受けたのだから、春だつたには違ひなかつたのだらうが、不思議な事に季節感が彼の脳裡に蘇つては來なかつた。


 一度目は、彼の生れたN區の「五反城」といふ處で、その俤(おもかげ)さへも殆(ほとん)ど知らない實母(じつぼ)の死の爲であつた。
二度目は、T區の「茶屋ヶ坂」に住んでゐて、そこは再婚した継母(はは)方の地所で、そこに粗末な家屋を建てて、そこでU小學校に一年生として入學したのであつたが、結局は舊家(きうか)の娘との結婚が徒(あだ)となつて、家庭のもめ事と言はうか、それとも所謂(いはゆる)性格の不一致とでも言はうか、當時(たうじ)の幼い彼には知る術(すべ)とてなかつたが、三、四年程の短い家庭生活を營んだ末(すゑ)に離婚した爲に、彼にとつては二度目の一家離散の憂目(うきめ)を見る事になつた。


 あれは彼が小學校の一年生も半ば頃だつたと想起するが、その継母と父との間に、男の子が二人生れてゐ、離婚の時にそれぞれが一人づつ引取つて、責任を持つて育てるといふ事で話がまとまつたやうだつたが、その後も彼と異母弟と父との三人は、暫くその繼母方の地所で、父と継母の父とで建てた家屋に住まはせてもらつてゐた。
 その頃の父は、生活といふものに嫌惡を感じてゐたらしく、何もせずに一日中ぶらぶらとして寢てゐる事が多かつた。


 元來、生活欲の旺盛な父だけに、それは餘程(よほど)の精神的な疲れであつたのだらう。
 どちらかといふとその若さで、まるで良寛和尚のやうな生活をしてゐた。
 近所の子供達が集まると、父は竹トンボを造つたり、逆立ちをして長い道程(みちにり)を歩いて見せてくれたり、角力(すまう)などをして、子供達と一緒になつて遊んで氣を紛はしてゐたのだらうが、しかし、それはさうかも知れなかつた。
 なにしろ、父はまだ二十八歳といふ若さで妻と二度の別れを經驗した上に、二人の子供を育てて行かなければならないといふ自身の將來に、漠然とした不安が横たはつてゐたと感じても無理からぬ事だつただらう。


 その不安は少年だつた彼にも反映して、小學校の給食費が拂へず、それが辛くて學校を休む事が多かつた。
 學校へ行くと言つては、腹を空かして見知らぬ町をうろついてゐた。
 日々の食べるものにも事缺(ことか)いて、鐡屑(てつくず)を拾つて賣つたりして僅かな収入を得てゐてが、それでは食麺麭(しょくパン)を買ふのが精々で、それを三日ぐらゐに分けて食べようと計劃(けいくわく)するのだが、空腹には勝てず、殆どが半日でなくなつてしまひ、あとの二日は呑まず喰はずで過ごした。


 翌年の春休みなつたある日、實家に歸つてゐた継母方から、今住んでゐる土地から立退くやうに言はれて、途方に暮れてゐた父に、折よく大阪で小さな會社を創立したばかりの實弟から、こつちで一緒に仕事をしないかといふ要望があり、兄としての立場もあつたのだらうが、この儘の状態ではどうする事も出來ず、結局、その仕事を助ける爲に大阪へ行つて働く事に腹を決め、家の荷物を全部賣り拂つて、とは言つてもたいした家具などはなかつたのだが、その家を出る事になつた。
 少年と異母弟とは父と別れて、「前後」に住んでゐる祖父母の處へ預けられる事になつた。
 その頃には、少年は感情を餘り表面に出さないやうになつてゐた。


 十八歳が過ぎて乗用車の免許を取得すると、彼は幾度か名古屋のT區の「汁谷」に住む畫家(ぐわか)の叔父さんの家を訪ねたが、一度目の時に偶々(たまたま)その頃の話になつて、継母とあの時連れられて行つたもう一人の異母弟の行方を訊くと、以前に住んでゐた處に今でもゐる事と、今はそこでお好み燒屋を營んでゐ、勿論、再婚してゐて、彼のもう一人の異父母()(かういふ關係をどういふのか又かういふ言葉が實際にあるのかどうか知らないのだが、一緒に來た異母弟の立場からいふと異父弟とでも言はうか。尤も男女の別は知らないのだが)以外に、二人ほど生れてゐるらしいといふ事を知り、「茶屋ヶ坂」は名古屋驛からのバスで「汁谷」の一つ手前の停留場であつたから、その後、歸りに何氣ない顏をして二度ほど食べに寄つた事があつた。


 彼は継母の顏を覺えてゐる筈であつたが、實際にその女性を目の前にすると、十數年もの歳月で、自分の記憶が不確かなものである事を今更のやうに知る思ひであつたが、お好み燒を燒いてくれた年配の女性も、彼の事には気がつかなかつたやうであつた。
 世間話をしてからその店を出たが、もう一人の異母弟にはつひに會へなかつた。


 彼にとつて名古屋といふ出生の地は、さういふ意味では餘(あま)り樂しい思ひ出のある故郷とは言へなかつたが、ただ一つ「前後」といふ土地だけは、他の二つの土地とは違つて妙に印象の薄い處であつた。
 一つには、それまでのやうに金錢的な苦勞や飢ゑからの解放などといふ事もあつたには違ひなかつたが、それよりも寧(むし)ろ、都心を離れた山間(やまあひ)の事だから誰も少年を嫌はず、忽(たちま)ちの内に友達が出來、その環境が平和だつたといふ事からであらう。


 それを考へると、彼は初めて少年らしさを発揮する事が出來た土地でもあつた。
 祖父母の傍(かたは)らで異母弟は幼稚園に通ひ、少年の彼はT小學校へ二年生として通學した。
 「前後」は、あの織田信長と今川義元との戰ひで有名な桶狹間の近くにあり、そこは暗い過去を忘れたい少年にはおあつらへ向きの風景であつた。


 名鐡(めいてつ)本線の「前後」驛は改札口が一つしかなく、その前に小さな廣場 があつた。
 駅の前を線路に竝行して左右に道が續き、道のやや左斜め向ひに理髪店があり、その二、三軒隣に本屋があつて、その通りと線路とを交叉(かうさ)する廣い通りとがあるのだが、本屋は線路を背にしたその十字路の右角にあつた。
 そのまま十字路を右に曲がると左側に風呂屋があり、兩端には各商店があつて、田舎のささやかな生活の營みを助けてゐるやうだつた。 


 そのまた突き當りは十字路になつてゐて、左右に續いて通りを横切ると蛇行した急な坂道があり、それを登ると國道一號線にぶつかる。
 それも横切つて眞直(まつす)ぐ行くと、小高い丘と丘の間に溝のやうになつて續く道があり、道の兩端はなだらかな土の壁で、その上は西瓜畑にになつてゐて、暫くしてその壁が跡切れると、兩脇はほの暗い竹藪で、青々とした竹が道の上に倒れさうになつて搖れてゐる。


 さうして竹藪の邉(あた)りからは下り坂になつてゐて、その途中で左側の竹藪を殘したままにして右側の竹藪が跡切れ、突然、谷のやうに地面がぽつかりと穴を開けてゐた。
 ――とはいつても、それが本當に谷だつたのか、あるいはそれ程ではなくても大きな窪みがあつたのか、それとも全然なんの變哲(へんてつ)もない空地だつたのか記憶にはない。
 唯、心情的に精神の奧にある地獄にでも續きさうな、谷に似た巨大な穴だつたといふ氣がするだけである。


 その先には、谷を臨むやうにして道とは直角に三軒の家が立竝び、右側に家と左側の竹藪が同じ位置の處で跡切れて十字路になつてゐる。
 右側の道は、二米(メエトル)程の上り坂の後に小高い堤のやうになつて續き、三軒の家の玄關先へと通じてゐて、それを更に眞直ぐ行くと同じやうな家が幾つかあつてからT字路になり、この道は國道一號線を横切つてゐる驛前からの道と竝行してゐる道だから、當然、そこを右に折れると國道一號線にぶつかる譯だが、今度はその上の歩道橋を渡る事になり、暫く行くと十字路があつて、その左斜め向ひがT小學校で、これが彼の通學路となつてゐた。


 その十字路を右に曲つて行くと、やがて元の「前後」驛の前に出る事になる。
 解り易く、驛前から蛇行した急な坂道を登り、國道を横切つて丘の間の道を通つてから竹藪を拔け、一廻りして再び右に行つた時の元の十字路に出る。
 その十字路の左側の道は、右と同じやうに二米(メエトル)程のゆるやかな上り坂があつて、薄暗い木々の奧へと續いてゐるのだが、最初は竹藪が塀のやうに歩だり側に搖らいでゐるだけで、その眞中(まんなか)(あた)りで竹を切り倒した空間に一軒の家が建つてゐた。
 それがT光代の家だつた。


 その道の向ひには、垣根越しに芝生を敷いた庭と、こんな田舎には不似合ひな西洋風の建物が見えた。
 その隣にも、鬱蒼(うつさう)とした木々の間に二、三軒の家が建つてゐた。
 道の更に奧にあるのは墓場で、これはかなり大きくて、山の斜面一蔕に墓石が何處までも白々と續いてゐた。


 あれは夏の盛りだつた。
 少年は異母弟と父とで「前後」へ初めて訪れた時、「前後」の手前の驛が競馬場だつたので、父はここで降りて場劵を買はないかと提案した。
 そこで降りると幾らか電車賃が安くなり、それで場劵が買へたのであるが、さうすればどうなるかと訊いた少年に、父はもしもそれを買つて當(あた)れば、お金が二倍にも三倍にも増えると言つた。
 少年は父の期待するやうな顏を見ると、「前後」まで歩く事を決心した。


 大人の祭りが終り、競馬場を後にして「前後」までの同じやうな田舎の道を歩き續けると、やがて、少年の眼前にその墓場が山の上の方まで廣がつてゐるのが見え、父と異母弟と一緒に、命の限りに鳴き續けるの聲を聞きながら、墓石の間を登つて行つた。
 父の默つてゐる姿を見ると、場劵は彼の人生のごとく、生憎(あいにく)、當らなかつたらしいので、少年は父にその事が訊けなかつた。
 かうして少年は、父の祖父母の「前後」の家にたどり着く事が出來たのだが、今でもあの時の事を思ひ出すと、蝉の聲が墓場の心象(イメエヂ)とともに、妙に耳の底に殘つてゐる。


 再び元の十字路に戻り、今度はその道を眞直ぐに行くと下り坂になつてゐて、兩脇の土地は左右にある堤の二、三米(メエトル)ほど下にあり、そこからは平らで、道を降りて行くほど兩脇の土地は高くなつて行き、右側は廣場になつてゐて、その五十米(メエトル)ほど奧に家が建ち、左側には道に面して家が建つてゐるが、その奧にも一軒の家があつた。
 その家が大家さんで、手前の借家に祖父母が住んでゐた。


 その二軒の家は、十字路から左側の堤と西洋風の建物から見ると、土地がそこだけ抉られた地形になつてゐて、家からは直角に切り立つた急な土の壁しか見えず、そこを住ひとする少年には、謂()はば遙か彼方に堤や西洋風の建物を空想するといふ心持であつた。
 家への入口は二箇所あつて、そのどちらからとも下り坂に面してゐるが、左側の堤に並行して建つてゐる物置小屋の横が本當の入口で、物置小屋の後ろに便所があつた。


 もう一つは入口とは言へず、どちらかといふと家の者や親しい人達が勝手に出入りをする通路のやうなもので、それは下り坂の途中から、今までは道よりも一段高くて平らだつた兩脇の土地が、いきなり崩れるやうに、殆ど垂直ともいへる傾斜で道と同じ高さになり、右側はそこから池になつてゐて、十字路を眞直ぐに來た下り坂の道は、この池の三分の二を廻つた處で行止まりになつてゐた。
 行止まりになつた道の左側は畑になつてゐて、畑はなだらかな山の上へ向つて續き、その山腹から松林に變つてそのまま頂きに達してゐるのだが、十字路からの道と畑との間には小(こみち)があり、それは大家と祖父母の住んでゐる二軒の家の眞中の處へと通じてゐた。


 少年は、そこで少なくとも平和な暮しを營み、T小學校へ二年生として通つた。
 嘗(かつ)ては學校においても、金錢的及びその結果として生ずる空腹感による歪(いびつ)な心から、少年は他の子供達とかけ離れた存在として自らも甘んじてゐたが、「前後」に移つてからはその翳(かげ)が薄れ、學校でも近所でも友達が出來、運動會や學藝會(がくげいくわい)の時にある役を受持つて、それが組の級友や參觀(さんくわん)した父兄にも人氣であつたと教へられ、少年は自分の態度や言動に次第に自信が持てた。


 さうして、何よりも少年の心を安らかにしたのは、近所に住むT光代といふ同じ歳の女の子であつた。
 少年は春休みに初めてこの土地に訪れて、近所で遊んでゐる時に光代を知つた。
 それは祖母と光代の母とのつき合ひから、より一層少年と少女は仲良くなり、光代はいつも少年の傍らで微笑してゐた。
 やがて學校が始まり、少年は光代と同じ組になつた事を知ると、その事を喜んで通學の時は勿論、下校の時も一緒に行動するやうにし、それが高じて少年は光代を家に呼んで、二人で遊んだり、また少年も光代の家に出入りした。
 光代には姉がゐて、その姉も可愛らしい顏立ちをしてゐた。


 春も終りの頃、放課後に光代と少年と先生とで、教室に殘つて話をした事があつた。
 その時、光代が、

 「桐生ちやん、明るうなりやあしたね」

 と言つた。
 先生もそれに釣られたやうに、

 「さうだなも」

 と少年の顏を見た。
 少年は照れ臭さうに、しかし、本當だといふやうに瞳を輝かせて光代を見た。

 「桐生君は、苦勞してりやあすからなあ」

 先生の言葉に光代も頷(うなづ)いた。
 少年は手短に自分の過去を語り、話しながら少し涙ぐんだが、直ぐに何でもないといふやうに口を噤(つぐ)んだ。
 先生と光代は同情してゐるらしかつたが、最後に光代が、明るくなれて良かつたね、といふやうな意味の事を言つて、少年と光代は二人して家へ歸つて行つたのだが、その事が今でも、彼に一筋の救ひの光明を殘してくれてゐたやうに思はれてならなかつた。


 事實、あの當時に母と死別した上に継母との別れといふ二度の辛い經驗と、父とはいつ會へるか解らないといふ悲しみから少年を救つたのは、外ならぬ光代だつた。
 今の彼には細かい事まで記憶にはないが、恐らく少年はこの光代の爲に、ある時は甘え、ある時は途轍もない冒をしたりしたのだらう。
 少年と光代は、光代の家に行く左側の堤の端に竝ぶやうにして腰を掛け、二人で將來の事を話し合つた。
 それは無邪氣なものだつたのだらうが、少年は幸福だつた。


 しかし、少年はある不安を覺えずにはゐられなかつた。
 それは、さういつまでもこの生活が續く筈がない、といふ漠然としたものだつた。
 また、それは例へば十字路を眞直ぐに行く下り坂の奧まつた處の右手にある、薄暗い水を湛へた池を思ひ出せば納得出來た。


 といふのは、その頃、少年は毎月漫畫雜誌を買つてもらひ、近所の違ふ雜誌を買つてもらつてゐた子供達と、交換しながら廻し讀みをしてゐたが、その中で作者の筆名(ペンネエム)と題名(タイトル)は忘れたが、ヘルメツトをかぶり、黒い覆面(マスク)をしてマントを羽織つた、所謂(いはゆる)空を飛ぶ日本版の超人(スウパアマン)の漫畫があつたのだが、その惡の對象が、いつもビルよりも大きな怪物(モンスタア)であつた。
 その怪物が何故か、その池の底にも眠つてゐるのだと考へてしまつたのである。
 ゐるゐないではなく、さう考へてしまふ事――少年はそれを恐れた。
 さう考へると、それは池ではなく沼のやうな氣がして來た。
 怪物は足に澤山の吸盤を持つた大蛸だ、と世間を知らない少年は想像するやうになつた。

三、

 月の明るい晩、祖父母に氣がつかれないやうに家を拔けだし、地面に吸いつくやうな翳を背負ひながら、少年は怯えるやうにして沼の近くまで忍びよつたが、それは水面に月を浮べた池で、勿論、大蛸が現れたりしなかつた。
 けれども、少年はそれでも怪物がゐないといふ事が信じ切れない儘、その土地に僅か一年の生活を終へると、大阪の阪急京都線の「南方」に住み、梅田のS小學校へ三年生として轉入(てんにふ)したが、父が近所の理髪店の娘を三人目の繼母(はは)として迎へた爲、近所の噂もあるといふので、同じ阪急の寶塚(たからづか)沿線の「庄内」に移り住む事になつた。
それと同時に、少年は地元のS小學校へ四年生として通ふ事となつた。


 少年は、その最も樂しかるべき多感な時期を悲しい運命の中で、四囘の轉居(てんきよ)と、都合(つがふ)三囘の轉校(てんかう)をしてゐたのだが、「庄内」を最後にして少年のそれからの放浪は別にして、家族としての移動は止まる事になつた。
 少年はS小學校を卒業し、T六中学校に入学した。
 しかし、三人目の繼母は明るくて樂しい新婚生活を營む間もない儘、少年が小學六年生の半ばで、實母の死の原因ともなつた胸を患ひ、三年といふ長い病院での鬪病生活の末、少年が中學三年生の卒業式も間際になつて、三番目の母の死の報せを聞かされた。
 三番目の繼母は以前からさういふ體質(たいしつ)だつたらしく、結婚生活によつて短い命をさらに短くしたのであるが、それも覚悟の上だつたらしい。
 何年かのちに、父は再三の不幸な結婚の末に、新しい四番目の繼母を迎へる事になり、男の子が一人生れたが、その時にはもう少年の姿を失つた彼と、一番年下の異母弟とは親子ほどの年の差となつてゐた。


 四人目の繼母の出現で、彼は彼の世界を創造しなければならない事を感じて家を出た。
 始めは住込みでガソリン・スタンドに勤務し、定時制高校へ入學したが、半年ほどで仕事を辭()めた。
 理由はなかつた。
 ただ何かが滿たされなかつた。
 學費も拂(はら)はなければならなかつたので、獨立したばかりの父の仕事を手傳ひながら彼は學校へ通つたが、それも長くは續かず、彼が通つてゐる定時制高校の一年間も終り、一學年への留年が決ると彼は家を出た。


 彼は學校からの紹介で、ある牛乳會社に勤めたが二週間と續かなかつた。
 結局、彼は自分の無氣力を思ひ知らされて家に戻つたが、今度は家の人々から疎(うと)んじられ、家に居た堪(たま)れなくなつて、再び近くのガソリン・スタンドへ住込みで働いた。
 半年ほど經()つて、また彼は夜逃げ同然で辭()めたが、流石(さすが)に今度は家に歸(かへ)らず、學友の水原の家に荷物を持ち込んだ。
 三箇月以上も水原に世話になりながら、彼は總(すべ)てに對(たい)して怠けてゐた。
 夢だけは人竝以上に持つてゐたが、人生に自信がなく、何かに情熱と目的を持つて行動しようとしても、直ぐに冷めてしまつた。
 それはこれまでの不幸な過去の所爲(せゐ)かどうか解らなかつたが、それも多分に影響してゐた事は事實らしかつた。


 年の暮も迫つた頃、彼は「道頓堀」のとある歌聲喫茶の歌手兼給仕(ウエイタア)として勤めたが、一箇月ほどで辭めて、水原の處へ戻つた。
 年が明けて、彼は行く處もなく三度(みたび)家に歸り、家業を手傳つてゐたが、それも捗々(はかばか)しくなかつたので、父の仕事の得意先の商店へ勤務する事となつた。
 彼は、そこで一年半近く勤めて辭めた。
 辭める時に家族の反對もあつたが、彼は誰の言ふ事も耳に入らなかつた。
 その後の彼は、Y新聞社でアルバイトを半年してゐたかと思へば、牛乳配達を八箇月、藥品會社の運轉手、運送會社、大きな飲食店チエエンの運轉手と、轉々と職を替へた。


 やがて、彼は借金ばかりが殘つた大阪の生活から逃れるやうにして、「横濱(よこはま)」へ向つた。
 「横濱」では、本やレコオドの販賣員(セエルスマン)をして暮した。
そこで、ある不幸な女性と知り合ひ、彼は彼女と一緒に生活するやうになつた。
しかし、その女性との同棲も二人の性格が合はず、險惡な日々が次第に多くなるにつれて、彼はあらゆる事が面白くなくなり、その生活が大阪での暮しと少しも變(かは)らない事に氣がついた頃には、仕事への張りもなくなつて職を轉々としてゐた。


彼が働きもせずに部屋でぶらぶらしてゐると、彼女の小言から二人の喧嘩へと發展し、また金錢的にも行き詰まつて来ると、二人はさらに激しくお互ひを罵り合ふやうになつた。
暫くしてから、彼は何度目かの勤めを東京の「四谷」にある不動産會社に入社したが、その頃には、仕事も、同棲してゐた女性との生活からさへも逃れたいやうな氣持に、彼はなつてゐた。
事實、彼は何度も彼女に別れ話を持ち出したが、女が涙を流した時、彼の決心は鈍るのだつた。


夏のある日、彼は仕事を休んで、彼女とレンタカアに乘つて「上高地」へ行く事になつた。
彼がお定まりの仕事を怠けてゐるのを見て、彼女は氣を使つてその旅行を提案したらしかつた。
五日ほどして退屈な旅は終つた。
彼と彼女は、その旅行の行きと歸りの車中で大喧嘩をしたが、やがていつもお決りの仲直りをして、

「あなたの生れた、名古屋へ行きませう」

と彼女が切り出した。
彼は名古屋へ行くのなら一人の方が良いと思つたが、それを口にすると、また喧嘩にもなり兼ねないので、彼は一緒に行く事を承知した。


國道一號線を走り、深夜に箱根を越えて名古屋へ向つた。
明方にT郡の「前後」に着いて、車の中で寢た。
目を覺ましたのは、午前十時頃だつた。
彼は彼女を連れて、驛前の喫茶店へ行つた。

「ここでの一年間の生活は、とても樂しかつた」

と、彼は彼女に聞かせた。
彼女を待たせて、彼は一人であの家までの道を歩いて行かうとしたが、彼女が嫌がり、また彼自身も彼女の事を哀れに思はれて來たので、その儘そこを離れて「汁谷」へ向ひ、その附近を歩いてから名古屋城へ行つた。
結局、彼は當り障りのない處を歩いて、二人は「横濱」へ歸つて行つた。


それから數箇月が經つて、彼は彼女と別れた。
「四谷」の會社も含めて、大阪へ歸る事にした。
大阪へ歸る列車の中で、彼は彼女との別れ際の事を思つて少し感傷的になつた。
静岡を過ぎ、名古屋が近づくと、彼は矢も盾も堪らなくなつて來て、名古屋に着いた時、彼は到頭そこで降りてしまつた。

四、

――名古屋。

それは彼にとつて、なんと懷かしい響きを持つた土地であらうか。
彼の總ては名古屋から始まつてゐた。
名古屋こそ、青春に挫折した青年を迎へ入れてくれる事の出來る、最後の土地ではなかつただのらうか。
彼は大阪や東京での生活が滿たされなかつた時、いつも名古屋を思ひ出した。
今まさに、彼はその名古屋の土地を蹈んでゐた。


彼は「五反城」の生家を、恰も偉大な人物を偲ぶやうにしてそこを訪れたが、家の前にあつた池は既になく、今はさびれた自動車教習所の軌道(コオス)跡になつてゐて、到る處に雜草が繁つてゐたし、その横には教會さへ建つてゐた。
さうして、生家の裏には今も變らず、彼の母の實母、詰り、彼の祖母が一人で住んでゐた。


彼はこれまでに三度ほどこの土地を訪れた時、その祖母に會つた事がある。
彼の父と實母とは従兄妹(いとこ)同士の結婚で、父の祖父と母の祖母とが實の兄妹だから、彼にとつて祖父も母の祖母も、非常に身近な血縁關係といへたが、母の祖母とは、祖母の波瀾(はらん)に富んだ人生と彼の人生との接點(せつてん)が極めて少なかつたので、彼の腦裡にはかすかにしか殘つてゐなかつた。
祖母は、彼の母以外に父の違ふ女の子をもう一人産んでゐて、彼の母の父親が誰なのかは解つてはゐないとの事であつた。
勿論、彼の母を産む時に、祖母はある人と何度目かの結婚をしてゐたらしいのだが、その結婚以前に既に祖母は身籠つてゐたらしい事を、彼はある人から聞かされてゐた。
彼の母の異父妹は、今は結婚をして裕福な生活を營んでゐるらしかつた。
彼は祖母とは會はずに、「茶屋ヶ坂」へ向ふ事にした。


「茶屋ヶ坂」のバス停留所を降りると、彼はあの時分によく通つたU小學校へと歩いて行つた。
小學校は、二十數年前の面影を留めてはゐなかつた。
あの頃、彼もこれほど小さな子供であつたのかと思はれるやうな小學生が、運動場で飛廻つてゐた。
今の彼と、あの頃の彼との差を改めて思ひ知らされながら、彼は畫家の叔父さんの處へは寄らずに「前後」へと向つた。


思へば、彼は大阪や東京の生活が滿たされなかつた時、いつも名古屋を思ひ浮べてゐた。
彼はこの名古屋で、何かを把(つか)まうとしてゐた。
しかし、彼はこの思ひ出を、より身近に感じられる名古屋へ來た事だけでも滿足だつた。
彼のこれまで人生は、いつも暗い悲しみ包まれた不幸の連續であつた。
「五反城」で生れるや母に死なれ、「茶屋ヶ坂」での騷がしい生活を過す中で精神の發芽を見、「前後」で幸福と不幸の間を往()き來()し、「南方」へ行方も定まらず暮し、「庄内」で遣り場のない青春の大半を終へた。
一體、あの少年が幸福になる權利は、母が死んだ時にすでになくなつたとでもいふのだらうか。
彼は、そんな何ものかに對する怒りにも似た感情で、「前後」の驛を降りたつた。


「前後」の驛前は、彼の知つてゐたあの頃と少しも變らなかつた。
懷かしさが蘇つて來た。
驛前の商店も、相變らず田舎びた風情であつた。
だが、蛇行してゐる急な坂道はなく、今は鋪裝(ほさう)されたゆるやかな直線の道を歩いて行つた。
いつの間にか、國道一號線の手前の角にはガソリン・スタンドがあつたが、それを氣にも止めずに國道を横切つて眞直ぐ行くと、小高い左右の丘は削り取られて、五、六軒の家が建ち竝んでゐた。
かういふ田舎にまで開發の手は伸びてゐるらしく、竹藪の一部は殘つてゐたが、西瓜畑はなくなつてゐた。
竹藪が跡切れて十字路へ出ると、かつて少年の住んでゐた家がある筈であつた。
けれども、その下り坂の兩脇には、彼の住んでゐた家はなく、二階建ての文化住宅が建つてゐて、幾人かの子供達と奧さんとが立ち話をしてゐた。
不審な男の出現が、話題に上つてゐるのかも知れなかつた。


追はれるやうにして、彼はT光代の家へ向つたが、驚いた事に、そこにはいつの間にか家が二軒になつてゐた。
彼の記憶の中では、確かにここにあつた家は一軒だけの筈で、それがこんな事になつてゐるなんて思つても見なかつた。
それに、その家の表札の名前は二軒とも全く違つてゐたし、第一、彼にはこの二軒の内のどちらがT光代の家だつたのか、解らなかつた。
竹藪全體が撓(しな)つて、その奧から風の聲が聞えて來さうだつた。
それぞれの竹の葉が慰めるやうに光を遮(さえぎ)つた時、彼はその場を離れると、また子供や奧さん達のゐる間を通り拔け、池の方へ降つて行つた。
道を降りながら、彼は不圖(ふと)、光代もかういふ幸せな生活を誰かと過してゐるのだらうか、と思つた。


細い道が右に曲つて、やがて彼の眼前に小さな池が見えた。
まだ春も浅い午後の陽光が、さざなみにきらめいてゐた。

――もう少し大きな池だつた。

と彼は思つた。
が、彼の眼の前にあるのは、紛れもなくあの怪物(モンスタア)が棲む、と幼い頃に思つた池に違ひなかつた。
しかし、いま彼はこの池に臨んで、一體、今の自分と、あの時ここに住んでゐた頃の少年と、どれ程の違ひがあるといふのだらうか思つた。
確かに、今の彼にはあの時の少年のやうな瑞々(みづみづ)しい輝きなどは、何處にある術(すべ)とてなく、ただ徘徊してゐる一人の孤獨な男として堕落したのかも知れなかつた。


彼は母を偲んだ。
さうして、あの「前後」での愼(つつ)ましやかで幸福な生活を思ひ出し、淡い感慨に浸(ひた)つた。
彼には未來はなかつた。
あつたのは、常に現在のくり返しであつた。
彼はそのくり返しの中でいつも過去を思つたが、それは彼に未來がなかつたからで、樂しかるべき未來があつたならば、彼とて未來に夢を馳せた事だらう。
その時――彼は池に對面(たいめん)しながら、納得の行く答へを探さうとしてゐた。
池のほとりに立つて、(さざなみ)のきらめきを眺めてゐる彼の周りにも、春の光がつつみ込むやうに躍つてゐた。


池には、やはり怪物は棲んでゐなかつた。
さうして、勿論、それはあの幼い日の彼にとつても、その沼には怪物など棲んでゐなかつたのだらう。
怪物が棲む沼は、彼の心の中にあつた。
怪物は、彼の精神構造の中の不安によつて育つて行き、何處かに隙を見つけると、そこへ禍々(まがまが)しい墨をまき散らして、渾沌(カオス)の世界を廣がらせて行つたに違ひなかつた。
春の池を背にして、彼は名古屋を離れた。


一九七九年昭和五十四己未(つちのとひつじ)年六月二十五日


 
後 記


十數年かかつて二十數枚の短篇を書上げた。
これは記録かも知れない。
「殘夢」はいつまで續くのだらうか。
これも記録になればと思ふ。